2017/03/13
根拠のない推測に基づく日本の原子力政策の危うさと罪
日本の原子力政策は、すべて「~だろう」という極めて楽観的で不確実で、なんの根拠もない前提のもとに進められてきたのだと思います。福島の事故も、「震度7の地震は起きないだろう」「10メートルを超える津波は起きないだろう」「補助電源が全て停止するという事態は起きないだろう」といったことが、確定している前提で進められていたために起きた人災なのだと思います。
しかし、東日本大震災でこれだけ多くの尊い命が失われ、多くの人がいまだに元の生活に戻れない状況にあっても、その姿勢は基本的に変わっていないと言えるのだと思います。
汚染水が海に流れ込むことを防ぐための凍土壁は、最初から緊急用のもので、長く効果を維持することができないどころか、最初からなんの意味もないおそれがあることが分かっていながら、なんの根拠もなく「これでうまくいくだろう」という前提で進められ、実際にうまくいっていません。
6年経っても溶け落ちた燃料がどこにどのような状態にあることすらわからず、その燃料を取り出す方法すらないのに、「いつかそのような技術ができるだろう」という極めて楽観的な見通しのもと廃炉計画が進められていて、世界の英知の粋を集める努力すらしていません。
貯蔵プールに保管してる使用済み燃料ですらその取り出し方法はなくて、取り出したところで処分する場所すらないという状況で、どうして事故処理、廃炉が進められると思っているのか、正常な判断力があるとは到底思えません。
廃止が決まっている「東海再処理施設」では、貯蔵プールに使用済み燃料の入ったステンレス製の容器が無造作に投げ込まれているような状態で、その映像を見た時には北朝鮮の核施設での研究者の話を聞いた時と同じような衝撃を受け、目を疑いました。「この映像は本当に日本なのか」としばらく信じることができませんでした。
日本の原子力政策は一事が万事で、安全に対する姿勢は未開の独裁国家と同等レベルと言っていいのだと思います。そこに北朝鮮やナチスのような人の命を命と思っていない冷酷さや、放射線が目に見えないことから、その恐ろしさを理解できない幼稚さを感じるのは私一人ではないはずです。
今、飯舘村が年間の放射線量が20ミリシーベルト程度になったことから避難指示が解除されることになっていますが、放射能の恐ろしさが分かっていないのか、わかっていて放射能による被害者が出ても構わないという冷酷さからなのか、どちらにしても人道的とは言えない措置がとられようとしています。
20ミリシーベルトというのは、緊急時、つまり長くても数ヶ月の基準であって、これが10年、20年、30年と毎年この量の放射線を浴び続ければ、問題が起きないとは決して言えないのだと思います。原爆による被爆者の症状を見ても、放射能への耐性は非常に大きな個人差がありますし、年齢によっても大きな差があるので、その影響が一定以上の人に出てくるのは間違いないと思います。特に子供に対する影響を考えると恐ろしくて仕方がありません。いままでこのような措置を取った国が存在しないことから、長期的大規模人体実験と言ってよくて、放射能による被害者が少なからず出るおそれがあることから、ナチスとなんら変わらない非人道的行為なのだと思っています。私は国連人権理事会で取り上げてもらいたいと考えています。
原子力政策に関しては、最終処分場がないという一点で、既に袋小路の状態にあるのだと思います。地震大国で降水量が非常に多い日本には、最終処分場に適した土地はないと断言できるのだと思います。これだけの重大事故を起こしてその被害は太平洋にも広がっていて、日本一国の話では済まされない状況の中で、「~だろう」という不確定な前提で進めていい政策では断じてないと強く主張したいと思います。
今回の東芝の大失態を見てもわかるように、原子力は決して安い電源ではなく、リスクばかりが大きくて衰退の一途をたどることは間違いありません。もう一度立ち止まって原子力政策を考え直すということをしなければ、大震災で失われた多くの命が無駄になってしまいます。多くの尊い犠牲に意味を持たせ、「あの時に大勢の人たちが亡くなられたけれども、そのおかげで日本の禍の種が取り除かれてよかったね。」と後世の人たちに感謝されるような決断を今の私たちが下す時が来ていると思うのですがどうでしょうか。