2015/12/26
今年は、NHK『ニュースウォッチ9』の大越健介氏、『報道ステーション』の古舘伊知郎氏、『NEWS23』の岸井成格氏が降板することになりました。
これで安全保障に関して政府に批判的な急先鋒のキャスター全員が、毎日のニュースからいなくなるということになるのだと思います。
岸井氏に関しては、「放送法遵守を求める視聴者の会」という団体が、岸井氏を非難する内容の広告を産経新聞と読売新聞に掲載したことがきっかけだったのだと思います。
木村草太准教授は、報道ステーションの中で『法律は過去からのメッセージ』と発言していましたが、放送法は、戦争中に報道が権力の顔色を伺いすぎて、政府を批判したり、戦争の本当の情報を国民に伝えることができずに、戦争が泥沼化していってしまったことの反省から生まれたと言われていて、公平、政治的中立というのは、権力側に傾倒した報道ばかりにならないように、報道の自由を確保するために作られたものだと聞いています。それが逆に権力を批判するメディアを規制するために利用されるというのは、ちょっと私には理解できません。
政府を肯定することが中立公平な放送で、政府を批判することが中立公平を欠いた放送という定義自体が、他の先進国から見ると、『日本は前世紀に戻っていくのか』と笑われてしまっても仕方がないのだと思います。さすが報道の自由度があの韓国よりも下であるということも頷けます。
本来、報道の自由や表現の自由は、憲法で保証された権利であって、しかも放送法が、戦前の反省から生まれたものだとすると、TBSも、岸田氏を降板させる必要はなかったのだと思います。しかし安部総理は、最高法規である憲法ですら、内閣法制局長を、自分の息のかかった人物にすることで、その解釈をいとも簡単に変えてしまいました。
公平公正な報道がなされていないということでTBSに行政処分がくだった場合、不服申し立てを司法にしても、その司法の人事を安部総理が自分の息のかかった人間にすれば、その申し立てが通ることはまずないので、行政処分がひっくり返ることはないのだと思います。
先日、福井地裁が高浜原発再稼働の差し止めを命じた仮処分決定を取り消しましたが、これも裁判官が代わることで全く反対の判決が出たもので、行政と司法の癒着が疑われています。
司法が権力に有利な判決しか出さなくなれば、TBSも、もう何をどう報道してもいいという状況ではないと腹をくくり、岸田氏の降板を決定せざるを得なかったのだと思います。
民主主義の根幹は、三権分立であって、国会を最高権力機関にすることで成り立つのですが、今は、行政が他の二権を圧倒してしまい、司法の独立は完全に失われてしまったのだと思います。
司法の独立が失われることで報道の自由や表現の自由は著しく損なわれ、今の日本は、民主主義ではなく、報道に関して言えば、ほぼ全体主義の時代に戻ってしまっていると言えるのだと思います。
本来であれば、権力がこのような暴走をすれば、国民が選挙で鉄槌を下せば済むことなのですが、日本は元々『与えられた民主主義の国』と言われていて、国民が自らの手で勝ち取った民主主義ではないために、自らの権利を守る意識もなければ、民主主義がどのようなシステムで、どのように守っていくかも理解している人が少ないと言えるのだと思います。
日本は『経済は一流、政治は三流』と言われていますが、その国の政治のレベルは、国民のレベルが反映されると言われています。それは日本国民が政治に関しては三流であるということなのだと思います。
絶対的な権力は絶対的に腐敗します。権力に迎合すれば、権力は無限に増長し、国民の権利を根こそぎ奪っていきます。
ブッシュ大統領が、フセイン政権の打倒のためにイラク戦争を始めた時には、ほとんどのアメリカ人がブッシュ大統領を支持しました。その結果は、フセイン政権の時よりもはるかに多くのイラク人が命を落とし、数千人もの米軍兵が犠牲となり、防衛費が天文学的な額に増大し、米軍の撤退に伴い生じた混乱から、ISという巨大テロリスト集団を生み出してしまいました。権力は潤い続ける一方で、そのつけは全てアメリカ国民に回ってきています。
権力に迎合した結果が、このような理不尽な結果になるという極めて身近な歴史の教訓なのだと思います。
日本人の多くが、歴史や先人の知恵に学んで、権力の暴走を止めることができることを心から望んでいます。